
倉本聰〔特別寄稿〕頭の中の「北の国から」―2011「つなみ」
ご存じの方もいらっしゃると思いますが、文藝春秋2012年3月号(第90巻第4号)に2002遺言以降の黒板一家のことが書かれています。
去年、2011年3月11日。
突如として起こった東日本大災害が、黒板家の暮しにも大きな激震を否応なく与えた。その原因をもたらしたものが、蛍一家の被災であり、津波による正吉の行方不明である。
※文藝春秋2012年3月号(第90巻第4号)P324より引用
福島で暮らしていた笠松一家の悲劇、北の国からファンとしてはショッキングな出来事ですが、実際に起きた東日本大震災も決して忘れてはならない大災害です。
今回は実際に福島県いわき市に行き、自分の目で今の福島を見てきました。
まず訪れたのは「沼ノ内海岸」



静かな海でしたが、周囲を見渡すと防波堤・水門などの構造物、整備された防災緑地、新しい道路。13年前にここを津波がおそったことを思い出させます。
次に向かったのは「いわき震災伝承みらい館」
https://memorial-iwaki.com/


震災の記憶や教訓を伝承する施設です。入場無料。パネル展示の他、震災の語り部の方の話を聞くこともできます。(私の行ったタイミングが悪く、話を聞くことができませんでした・・・)


津波の被害を受けた中学校は3月11日当日が卒業式だったそうです。黒板に書かれた希望に溢れたメッセージを見ると涙がとまりません。その前には、砂と海水のダメージから修復された「奇跡のピアノ」が展示してありました。

津波遺留品の展示。現在でも思い出の品の返還手続きの受付をしているそうです。

津波の犠牲となった当時小学4年生の女の子、将来の夢はデザイナーだったそうです。絵画コンテストで佳作を受賞した絵をデザインしたハンカチが販売されていました。
海岸沿いにいくつかあった震災の慰霊碑には亡くなった人の名前が刻んでありました。小学4年生の女の子もそうですが、犠牲となった方にはそれぞれの人生があり希望がありました。一人一人の思いを考えると心が痛みました。
2017年にテレビ朝日系列『帯ドラマ劇場』枠で放送された倉本聰先生脚本の「やすらぎの郷」にも東日本大震災や津波の描写があります。いわき市内にあるロケ地とあわせて紹介します。


◆海
鉛色に凪いでいる。
新しい防波堤で、町と遮断された砂浜。
一人立っている栄。
N「いわきの海は鈍色に凪いでいた。6年前ここを津波がおそい、直美の体を沖へ運んだ。そんな情景は想像もできなかった。昔喪服には鈍色を用いた。そんなことをぼんやり考えていた」
栄、ーふと、浜に小さな貝がらを見つける。手にとる。
N「かつて一時期私の愛した少女が、ひっそり歳をとり、この海を沖へ、孫娘としっかり手を握り合ったまま、大洋の彼方へ流されようとした。
孫娘は何かに懸命にしがみつき、祖母の手を離すまいと必死にがんばったが力尽きその手を離してしまった。祖母はそのまま海の中へ消えた。少女はそのことを自分の罪だとした。
ー手を離したのは私」
海。
潮騒。
栄。
※「やすらぎの郷」下 第91話~第130話 倉本聰 双葉社 P288~289より引用


◆食堂
ラーメンを喰っているアザミと栄。
二人共口をきけず、ただ、黙々とラーメンを喰う。
N「しゃべる言葉が何もなかった」
食べる二人。
N「目の前にいるのが、アザミか―直美か」
栄。
N「6年前の事故の重みが、まちがいなく厳然とここには残っており」
箸を運んでいるアザミの手。
N「見まいと思ってもアザミの若い手が、私の目をつかんで離さなかった」
栄。
N「津波の力に抗し切れず、祖母の手を離したという、その若い手が―」
◆イメージ(フラッシュ)
津波。
◆イメージ(フラッシュ)
離れた二人の手。
※「やすらぎの郷」下 第91話~第130話 倉本聰 双葉社 P292より引用
長文の投稿、最後までお読みいただきありがとうございました。あらためて震災でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈りいたします。
※写真撮影・SNS投稿について、いわき震災伝承みらい館の職員とチーナン食堂従業員の方の許可を得ています。

